長岡京市立図書館の棚から



長岡京市立図書館で借りた本から、これは!と思うものを選んで紹介しています。

セリア・リーズ『魔女の血をひく娘』

 『魔女の血をひく娘』

 セリア・リーズ Celia Rees
 2000年 原題:Witch Child
 翻訳:亀井よし子  理論社

     〈長岡京市立図書館の成人図書の棚から〉



 古いキルトの中から出てきた日記、というスタイルで綴られる物語。もちろん偽書。読み慣れた目で読めば、創作であることはすぐわかるでしょう。

 薬草使いの祖母と二人きりで暮らしていた娘。その祖母が魔女の嫌疑をかけられ、処刑される。娘はイングランドを逃げ出し、新大陸のアメリカにたどり着くが、ここでもまた彼女は魔女の疑いをかけられる。

 17世紀の迷信深い時代の話ではあるが、不幸や不平不満を他人のせいにするということはいつの時代にもあることなので、現代の読者にも身につまされるものがある。

 自由で開明的な考え方をする人物が何人か登場する。彼らもまた、陋習にこり固まった人々から、結局は迫害を受けることになるのだ。

 自由で偏りのないものの考え方を持ち、固定観念を打ち破ろうとする者は、いつの世にも変人扱いされてしまう。それだけ世の中は固定観念に支配されている、ということなんだ。


 価値観の対立の物語でもあるこの小説は、頭が堅くなっていることを自覚できない現代人に向けての警告だ。「見る目を持たない者、そして見ようとしない者」という祖母の言葉はくり返し語られる。物語として楽しむだけではなく、警告を謙虚に受け止めたい。

 惜しむらくは、娯楽読み物としての譲歩のためか、主人公と祖母を本物の魔女として描いていることだ。物語としてはより起伏を持たせられるが、リアリティは若干損なわれる。本物の魔女が出てこなくても、じゅうぶんシリアスでサスペンスフルで、力強い風刺物語になりえていたと思うのだが。


 漢字にはおおむねルビがふってあります。子供にも読んでもらいたいという、編集者側の思いが感じとれます。

 表紙の女の顔はモノクロ写真で、モデルが誰なのか知らない。虐げられた人の顔であり、恨みではなく強烈な怒りを発している。『オオカミは歌う』の表紙絵と同様、インパクトがある。


 著者のセリア・リーズの本は、『レディ・パイレーツ』Lady Pirates(理論社)を『シャーロット・ドイルの告白』の紹介のところでも、少しだけふれています。

                  船越聡 2007.5.7


追記。

『魔女の血をひく娘2』
2002年
原題:Sorceress


 米国史の中で主人公のその後を描くことに意味はあったと思うが、物足りない。

 セリア・リーズは類型を超えた人物像を真剣に追究すべきだ。戦闘シーンを描くことからいつまでも逃げてばかりいないでほしいとも思う。『レディ・パイレーツ』もそうだったが、本当なら凄惨な戦いのシーンがあるはずのところを、すっ飛ばしている。

 それでも物語として面白く読めるし、米国の裏面史を見るうえで意義ある作品だとは思う。

                   2007.5.13







ブロック・コール『森に消える道』

 『森に消える道』

 ブロック・コール Brock Cole
 1987年 原題:The Goats
 翻訳:中川千尋  福武書店

     〈長岡京市立図書館の児童書の棚から〉



 表紙絵を含め、イラストが著者。プロっぽいと思ったら、イラストが本業だった。ちなみに上の絵は素人の僕が勝手に描いたイラストです。こんな挿し絵じゃありません。念のため。

 これは彼の初めての小説。あふれ出るストーリーにせきたてられように書きつづったと、著者あとがきにある。こういうのは面白いのが定石。期待を裏切らず、冒頭の事件からエンドまで、ゆるみのない緊迫した展開で、一気呵成に読んでしまえる。

 本業じゃないだけに、細かな描写や、エンディングの余韻の残し方に物足りない部分はある。が、作品の力、勢いに惹きつけられた。

 作家のセンスは制作履歴にあるのではない。それまでの内的蓄積にあると信じる。


 ストーリーは、サマーキャンプに参加した13歳の少年と少女が、湖の中の小さな島に置き去りにされるところから始まる。同じように参加してきた悪ガキどものいたずらで、身ぐるみはがれ、裸のまま二人だけが残される。

 二人は自力で島を脱出。空き家から服を、車のダッシュボードから小銭を失敬し、逃げた。自分たちを裏切った社会からの脱走だ。途中で出会った少年が名づけたように、ボニーとクライドのような若きアウトローになりつつある。彼らはぼんやりと、このまま社会そのものから逃避してしまい、森の中で二人きりの生活ができないかと夢見かける。

 逃避行の過程で二人は多くの人と出会った。二人は成長し、互いの絆を深めていく。本来属していた社会に復帰する直前で物語は終わるが、ひとまわりたくましくなった二人はもはや、悪ガキどもにつけ入れられるようなヤワな子供ではない。


 原題の"The Goats"はヤギ。スケープゴートのゴートだけど、日本人にはわかりにくい概念なので変更されたようだ。『森に消える道』というタイトルはいい。表紙の絵とあいまって、なかなか興味をそそるものがある。

 たぶんブロック・コールのもとには創作の神様が突然降りてきたんだろう。僕のところにもこんなふうに突然来てくれないかな。

                  船越聡 2007.4.17





メルヴィン・バージェス『オオカミは歌う』

 『オオカミは歌う』

 メルヴィン・バージェス Melvin Burgess
 1990年 原題:The Cry of the Wolf
 翻訳:神鳥統夫(かんどりのぶお)  偕成社

     〈長岡京市立図書館の児童書の棚から〉



 ブリテン島(英国本土)の最後のオオカミと、オオカミを追うハンターとの死闘の物語。

 前回取り上げた『運命の子供たち』には悪役が登場しなかった。この『オオカミは歌う』は冷酷で自分本位の悪党が登場する。

 このハンターは、希少動物を殺し、絶滅させることに快感を覚える人非人だ。正義感からくる怒りがむくむくと内側から湧き起こってくる。奈良市の児童誘拐殺害の小◯薫と同レヴェルの極悪非道だ。こんな手合は死刑ぐらいでは手ぬるい。

 一家を皆殺しにされたオオカミの憎悪対、男の欲望という、シンプルでストレートな物語構成だが、シンプルなだけに強く迫ってくる。

 表紙の絵(清水勝)はオオカミの顔のアップだが、表情に凄みがある。引き込まれ、何度も何度も見てしまう。

 この物語では当然の結果として、オオカミが復讐を遂げる。が、そこに勝利の喜びはない。物悲しさがいつまでも尾を引く。

 ブリテン島の最後の一頭となったオオカミは、このあと孤独に生き、死に、血を絶やすのが目に見える。その悲しみ、怒り、声なき声をこの表紙絵が雄弁に語っている。


 北カナダを舞台に、オオカミと暮らした物語を自伝として書いたファーレイ・モウワットFarley Mowatの『オオカミよ、なげくな』(紀伊国屋書店、絶版)も傑作です。図書館で見つけられたら、こちらもぜひ。ちなみにこちらの原題は"Never Cry Wolf"。

                  船越聡 2007.3.1





『運命の子供たち』

 『運命の子供たち』

 ピーター・カーター Peter Carter
 1987年 原題:Children of the Book
 翻訳:犬飼和雄  ぬぷん児童図書出版

     〈長岡京市立図書館の児童書の棚から〉



 ずしり、読みごたえのある大作。侵略してきたオスマントルコ軍と、城塞都市ウィーンとの攻防戦を描いた歴史小説だ。

 時は1683年。オスマントルコの大軍がウィーンを包囲し、攻撃する。侵略の動機は、あのブッシュ大統領でさえ首をかしげそうなほどの怪しげな理由だ。平和が続くと強大なトルコ軍に必ず不穏な動きが現われ、反乱が起こるだろうから、というもの。軍隊の秩序維持のために戦争を始めなきゃならないなんて、アメリカ帝国より異常だね。

 さて、当時のウィーンはオーストリア帝国の首都だけど、ヨーロッパ全体の中心地でもあった。だがこの時、ヨーロッパ諸国はカトリックとプロテスタントに分かれ、血を流しあい、とても一致団結してイスラム勢力と立ち向かう状況になかった。そこをトルコが突いてきたわけ。

 オーストリア皇帝は周辺国に援軍を頼むが、カネや取引条件がからんで、すんなりとは動かない。児童文学には珍しく、国際政治力学がドラマの片方の柱になっている。

 もう一つの柱になってるのは、市井の民のドラマ。トルコ歩兵の一少年、ウィーンのパン職人の一家、ポーランド軍の一人となる地主の息子を中心としたドラマが並行して描かれる。

 この物語が児童文学として珍しいもう一つの点は、戦闘中の残虐行為を、さほどオブラートに包まない形で描写していることだ。トルコ側とオーストリア側、公平に描いているとはいうものの、侵略の動機やトルコ軍の野蛮さなどから、読み手の贔屓目はどうしても攻められるウィーンの側へ傾いてしまう。

 歴史小説で欠かせないのは「人物に血が通っている」ということ。この点では申し分ない。軍や国のトップから末端の一個人まで、リアルに浮かび上がらせた。政治背景をきっちり描いたうえで、巻き込まれる者たちの視点からドラマを構築している。

 難攻不落のはずの砦がじわじわと侵食され、数にものを言わせた強引な攻撃により、ウィーン守備隊はじりじりと後退を余儀なくされる。兵員は日に日に数を減らし、切迫感と重苦しい絶望感が全市民の上にのしかかってくる。そしてウィーンから離れた地では皇帝が、のんびり政治をやっているという、そういう話。

 筆力は並外れたものがある。ピーター・カーターはこの他の作品をまったく知りません。ヨーロッパの歴史に関心があれば、ぜひにとお薦めしたい。関心がなくてもお薦めできる作品です。

 ちなみに原題の"the Book"は、聖書のことです。

                  船越聡 2007.2.24





『テラビシアにかける橋』

 『テラビシアにかける橋』

 キャサリン・パターソン Katherine Paterson
 1977年 原題:Bridge to Terabithia
 翻訳:岡本浜江  偕成社

     〈長岡京市立図書館の児童書の閉架の棚から〉



 米国ヴァージニアの保守的な農村に住む10歳の少年ジェシー・アーロンズJesse Aaronsと、隣に越してきた同い年の少女レスリー・バークLeslie Burkeとの、出会いから予期せぬ別れまでを描く物語。二人は森の中で想像の王国、テラビシアを作り上げる。そこは神聖なる地、汚すべからざる神の領地。

 児童文学史上の金字塔といえる名作を、久しぶりに読んだ。読み始めて、ひりひりと体にはりつくような激しい皮膚感覚がよみがえってきて、一瞬ひるんでしまった。こんなにもリアリティのある作品だったんだ。主人公の心の揺らぎを、これほどまでにリアルに描き上げた作品をほかに知らない。このリアリティの高さが、終盤の展開をインパクトあるものにしている。

 翻訳もよかったのかもしれない。ただし訳者は、結末の重要な部分を訳者あとがきでバラしてしまっている。これはルール違反だ。幸いにも僕は、初めて読んだときも、あとがきを最後に読んだ。読む前に知っていてはいけない重要な部分だ。


 キャサリン・パターソンは2006年にアストリッド・リンドグレーン記念文学賞を受賞している。代表作である『テラビシアにかける橋』を評価してのことだというのは間違いない。ほかにどんなすぐれた著作があるのか、知らない。読んだことは読んだが、印象に残ってないのだ。隠れた名作が眠ってるような気がしてならないが、図書館にはロクに置いてない。代表作を閉架に片づけてしまって平然としてるようなボンクラな図書館なので、情けない。いちおう開架に出すよう言っておいたので、いっときは出ていた。今はまた閉架に逆戻りしている。

 この本でさえすでに絶版になってて、キャサリン・パターソンはとかく手が届きにくい。とにかく読めるものだけでもすべて読んでしまおうと思っている。

 1985年に米国でテレビドラマになり、今年二度目の映像化がなされている。だが、ディズニーだ。しかも、『ナルニア』のようなファンタジーに改変してるという噂も聞こえる。『乙女の祈り』のボロニアみたいに、CGでテラビシア世界が映像化されているであろうことは察しがつく。そんなものは結構!

 少年の妹メイ=ベルMaybelleは、なにげないようだけど三番目に重要な人物として描かれている。この少女に『ナルニア』に出ていたジョージー・ヘンリーのイメージがはりついてしまった。メイ=ベル役をやるには、少々年齢をオーバーしてしまってるだろうけど、キャラクター的にはぴったりだった。

 蛇足だけど、記憶していたささやかなエピソードが今回見当たらなかった。偽記憶の創造というものはほんとにあるんだなと、実感させられた。

                  船越聡 2007.2.10





『ブロックルハースト・グローブの謎の屋敷 メニム一家の物語』

 『ブロックルハースト・グローブの謎の屋敷 メニム一家の物語』
 シルヴィア・ウォー Sylvia Waugh著 1993年 原題:The Mennyms
 翻訳:こだまともえ  講談社

     〈長岡京市立図書館の児童書の棚から〉



 メニム一家のもとに一通の封書が来る。借りていた屋敷を相続したオーストラリアの青年が、ぜひお近づきになりたいので、英国のその屋敷を訪問したいと言ってきたのだ。

 大騒ぎとなったメニム一家は、実は人間ではなかったのだ。彼らは命を持つ人形だった。大都会の人間社会の中でひっそりと、誰にも気づかれず、40年間平和に暮らしていたが、ついにその平和が破られることになる。

 という導入部からラストまで、展開の予測をつかせない。それ以上に、全員で11人という大家族のそれぞれのキャラクターが、人間以上に生き生きと描き出されていることに感嘆する。

 筆者が女性だからなのか、ひねくれ者どうしの十代姉妹の関係の描き方と描き分けに、とりわけ力を感じさせ、不思議な魅力があった。過去、人形小説やぬいぐるみ小説はたくさんあったが、ここまで人物造形に力を注いだものはあっただろうか。

 これが著者のデビュー作。人気が出たらしく、その後、シリーズになっている。シリーズ化に適した内容なのかどうか、なんとも言えない。最初からシリーズ化を狙っていれば書き方も変わったろう。エンドが少々丸く収まりすぎる。それは余韻を消しかねない。余韻を残すためには、どこかでひっかかる部分を残しておいたほうがよかった。

 それでもユニークなキャラクター世界の魅力で、この作品は記憶に残る。続編を読みたいような、読みたくないような、複雑な気分だ。

                  船越聡 2007.2.2





アヴィ『シャーロット・ドイルの告白』

 『シャーロット・ドイルの告白』
 アヴィ Avi
1990年 原題:The True Confessions of Charlotte Doyle
 翻訳:茅野美ど里  偕成社

     〈長岡京市立図書館の児童書の棚から〉



 図書館でうっかり『シャーロック・ドイル』と読んでしまい、ホームズのパロディかと勘違いして、まじまじと見つめてしまった。アヴィではないか。今まで読んだのは2冊だけだが、ただ者ではない力量を感じていたので、借りて読んだ。

 イギリスからアメリカへ、13歳の女の子が帆船に乗って帰ってくる。19世紀、上流階級のお嬢様が、単身でだ(乗組員を除く)。その間の波乱万丈の冒険談がこの物語。

 面白い。海千の悪党との戦いが。悪事が発覚するのを怖れて女の子(これがシャーロット・ドイル)を抹殺しようとする船長。まわりは船員のみで、信頼できる味方はほとんどいない。13歳のお嬢様と悪事に長けた海の男が、逃げ場のない狭い船上でほぼ一騎討ちである。

 いかに開き直ったとはいえ、上流階級の13歳の女の子が短期間で船員としての能力を身につけてしまうのは少々できすぎです。が、確かな描写力とキャラクターの造形力のおかげであまり気になりません。なにより、ぐいぐい引き込む筆力がこちらを圧倒します。

 この物語、ほんとうの面白さはエピローグにあった。彼女が戦ったのは悪党だけではなかった。手にした力によって、旧体制に対しても歯向かった。痛快で、爽快な後味が残りました。


 アヴィは、このコラムコーナーの第2回でも『星条旗よ永遠なれ』を取り上げています。一人の作家に一冊ずつとは決めてないので、いいものを見つけたら、同じ作家を何度も取り上げます。

 これと似た雰囲気を持つ物語にセリア・リーズの『レディ・パイレーツ』(理論社)があります。レディがなりゆきで海賊になってしまう話です。これもなかなか面白い。

                  船越聡 2007.1.21





シルヴァーナ・ガンドルフィ『亀になったおばあさん』

 『亀になったおばあさん』
 シルヴァーナ・ガンドルフィ Silvana Gandolfi
1992年 原題:ALDABRA La tartaruga che amava Shakespeare
 翻訳:泉 典子  世界文化社刊

     〈長岡京市立図書館の児童書の棚から〉



 ストーリーは、亀になったおばあさんのお話です。

 ヴェネツィアに住むエリーザという少女の祖母。「死をうまくかわすためには変身すればいいのさ」と、わけの分からないことを言って、ちょっとずつ亀になってしまいます。

 勝手に冬眠してしまうし、アルダブラゾウガメという稀少な亀なので、コレクターが盗みに来る。何十年ぶりかという高潮がヴェネツィアを襲ってくるというのに、巨大な亀は冬眠したままです。10歳の孫娘はピンチから逃れるため、幼い頭をフル回転させて活躍します。


 僕はファンタジーが好きですが、現実と無関係な空想世界のお話はあまり好みません。普通の人が普通に生きる日常世界に起こるファンタジックなストーリーが好きです。この作品は少女の家族の背景をふまえ、きちんと現実世界を描いたうえで物語ってくれるので、中へ入りやすい。

 この人は月並みなストーリー展開が嫌いなんでしょう。トンデモ度は、下の『ルート225』や『これは王国のかぎ』のノリです。この手のブットビものは大好きです。

                  船越聡 2007.1.17





ジャネット&アラン・アルバーグ『だれも欲しがらなかったテディベア』

 『だれも欲しがらなかったテディベア』
 ジャネット&アラン・アルバーグ Janet & Allan Ahlberg
1992年 原題:The Bear Nobody Wanted 翻訳:井辻朱美 講談社刊

     〈長岡京市立図書館の児童書の棚から〉



 不良品として工場ではねられたテディベアの物語です。再生にまわされる不良品の箱から、掃除婦が(無断で)持ち帰ったことからクマくんの人生遍歴が始まります。「人生山あり谷あり」とクマくんはつぶやきますが、その実、ほとんどがどん底、谷底の生活です。

 彼はどうして工場検査ではねられたのでしょうか。顔がかわいくなかったからです。目鼻の位置や口の形がやや尊大なのです。

 当のクマくんは自分のこと、できそこないとはちっとも思ってません。それどころが、威厳のある立派な、世界一のクマだと思ってるのです。ですから、誰からも愛されなかったり、靴磨きの代用品として使われたりして、彼のプライドはそのつどズタズタに傷つくのです。

 高慢すぎる彼の性格がボコボコに叩かれ、人形社会でもまれるうち、彼は変わってゆきます。友だち(それもぬいぐるみ)との友情が芽生え、いっぱしの社会性というものを身につけるようになります。世の中は自分中心にまわっていっているのではないのだ。当り前のことを、実感として知るのです。

 流れ流れて(というより流されて)、彼はあまり裕福ではない家庭におちつき、そこで喉から手が出るほど欲しかったものをようやく手に入れます。それは、彼に対する愛情と、自分の名前。温かで、気持ちのいいハッピーエンドです。


 アルバーグ夫妻に関してはよく知りません。本の著者紹介が知識のすべてです。アランが文章、ジャネットがイラストという分担で発表し続けているようです。残念ながら邦訳はほとんどなさそうですね。

                  船越聡 2006.11.23





荻原規子『これは王国のかぎ』

 『これは王国のかぎ』 荻原規子 Ogiwara Noriko
   1993年 理論社刊

     〈長岡京市立図書館の児童書の棚から〉



 『空色勾玉』で知られる荻原規子さんの児童文学ファンタジーです。ごく普通の中学生の女の子がアラビアンナイトの世界へトリップし、波乱万丈の冒険を体験する、という物語。

 中学の制服のままターバン巻いてぶっとびまくる。笑いとハチャメチャとスリリングがグチャグチャになってラストへなだれこんでいく。しかもリアリティを損なわずに(トンデモなスーパーマンが現われて主人公の助太刀をする以外は)。

 どんなありえないシチュエーションでも、どんな奇天列なストーリーでも、物語に絶対必要なものは「読者を納得させるだけのリアリティ」であり、「魅力的(悪の魅力も含む)で、血の通ったキャラ」の二つ。特にリアリティがなければファンタジーは空虚な絵空事にすぎない。『これは王国のかぎ』はリアリティも、魅力的で血の通ったキャラも、申し分なく備わっているので、心置きなく物語に没頭できる。

 没頭したのだ。しまくったのだ。ぶっとんでしまったのだ。頁をめくる手がふるえ、読む遅さがもどかしく、早くその先を知りたい。それでいて、終わりが近づくと、終わってほしくない。

 最終頁に到達すると、目がついラスト付近に吸い寄せられるので、やむなくリモコンをバン!と置いて伏せた。この物語、面白さでは今年読んだものの中で圧倒的にトップだ。

 途中までで派手に盛り上がると、心配性な僕は尻すぼみで終わってしまうのではと不安にかられる。この作品に関しては杞憂でした。裏切らずに締めくくっている。見事というしかない。

 物語は、失意のどん底に落ち込んだ女の子が、自らの手で立ち直りの道筋を見つける話でもある。読み終わってすっきりした後味を残す作品だ。


 下の既出作品リストを見て気づいたのだが、『これは王国のかぎ』は藤野千夜の『ルート225』に近いと言えなくもない。外国の作品がシリアスなドラマ、日本のがお笑い混じりのファンタジーという色分けが、今のところできているのが面白い。


 実をいうと荻原さんの本をまだこれしか読んでない。さっそく『空色勾玉』を読むことにした。

 閉架図書だった。なんという扱い。絶対、閉架の棚は開架よりずっと豊かなライブラリで、垂涎の世界が広がってるにちがいない。一度見てみたい。

                  船越聡 2006.11.17





ヴィヴィアン・アルコック『サーカスは夜の森で』

 『サーカスは夜の森で』 ヴィヴィアン・アルコック Vivien Alcock
   1983年 原題:Travellers by Night 翻訳:久米穣 あかね書房刊

     〈長岡京市立図書館の児童書の閉架の棚から〉



 ヴィヴィアン・アルコックは『テディベアの夜に』(1985年 原題:The Cuckoo Sister 金の星社刊)に続いて、『サーカスは夜の森で』を読んだ。読んだ二つが二つとも傑作だった。

 他のものも読みたいのだけど、図書館にあるのはこの二つだけ。おまけにこの本は閉架扱いだった。著作は20はありそうだが、翻訳じたいがほとんどなく、どうやらこの二作だけらしい。信じがたい話だ。日本の読者は見る目がない。

 作家である夫のレオン・ガーフィールドを支えてきた期間が長いんだそうだ。このレヴェルのものをコンスタンスに書けるなら、夫のレオンが彼女を支えたほうが、読者としては幸せなのではないか、などと思ったりする。

 本書の物語は、一つのサーカスが経営破綻するところから始まる。ゾウが食肉処理場へ送られてキャットフードになってしまうことを知った若い団員二人が、ゾウを連れて逃げ出す。サファリパークがゾウをひきとってくれる可能性に賭けて、子供二人(十代前半の踊り子と道化師)がゾウを引き連れて逃避行をする。そのトンデモなストーリーに魅せられてしまった。

 トンデモではあっても、現実離れしたリアリティのない話ではない。アルコックもロバート・ウェストールと同様、子供たちの心理描写にすぐれている。悲しみやねじくれた心、怒りに妬み、プライド、心の弱さなどが、きめ細かく、ヴィヴィッドに伝わる。ウェストールもそうだけど、厳しい現実の中でけんめいに生きている子供たちをよく活写している。きちんと「描けている」小説を読むのは楽しい。安心して没入していられる。


 『テディベアの夜に』も少し紹介。姉が赤ん坊のときに行方不明になったまま、という家庭に育った少女。両親の愛情はいなくなった姉のほうに向いている、という強いコンプレックスを抱いている。

 その姉が十代の女の子としてひょっこり戻ってくる。はたして本物なのか、偽物なのか。妹は姉に対して、嫉妬と、肉親としての愛情とのはざまで揺れる。

 『サーカスは夜の森で』もそうだが、ヴィヴィアン・アルコックのサスペンス感覚は優れたものがある。ぐいぐいストーリーに引き寄せられたまま、巧みに秀逸なラストまでいざなわれゆく。

 他の作品もなるべく見つけ出したいが、英語の原書を読み通す語学力はないので、ほんとに邦訳がないのなら、出るまで待つしかない。

                  船越聡 2006.11.3





ロバート・ウェストール『禁じられた約束』

 『禁じられた約束』 ロバート・ウェストールRobert Westall
   1990年 原題:The Promiss 翻訳:野沢佳織 徳間書店刊

     〈長岡京市立図書館の児童書のコーナーから〉



 ロバート・ウェストールは最初に読んだ『かかし』が合わなくて、長らく無縁の作家になっていた。

 その後に読んだ『クリスマスの幽霊』『猫の帰還』『海辺の王国』『禁じられた約束』は、どれもすばらしかった。すぐれた作家を知らずにいたことを恥じた。

 『かかし』がイマイチだったのは、ホラーふうに見せつつ、ホラーになりきれない半端さに苛立ったせいだ。人物の内面ドラマを見すごした可能性がある。もう一度、読んでみます。

 ウェストールの小説はどれも作品世界がリアルに活写されている。これは小説の基本のキであり、最重要なことの一つです。もひとつ重要なのは、人物がきっちり描けていること。ウェストールはこの点も、当然のごとく楽勝でクリアしている。

 世間ではちっとも「できてない」作品が大手を振って本屋の棚に並んでいる。なのに、ウェストールの本は置いてなかったりする。人間がろくすっぽ描けてないダイアナ・◯ィン・ジョーンズとか、ゲームの粗筋かと思うようなスカスカのエミリー・◯ッダとかは、わざわざ本にして出すほどのことはない。

 たまたま女性作家二人を槍玉にあげてしまったが、性差別ではありません。僕の読む小説の7〜8割が女性作家の手になるものなので、つい名前が出てしまうのです。

 最後に読んだ『禁じられた約束』の内容については、訳者あとがきで簡潔に表現している。「ほほえましい初恋の物語が一転、恐怖の世界へ変わっていく」。これに書き加えることを思いつけないぐらい、内容を的確に言い表している。

 これはホラーであり、恋物語でもある。舞台は第二次世界大戦の英国。この三つの要素がからまりあい、凄絶なクライマックス(エンディング)へ向かってなだれこんでいく。スリリングであり、ワクワク感も伴う、妙な感覚を味わった。

 読み終わって、「お前はもう小説なんか書くな」と言われたような気がして、打ちのめされた。二流の作家ぐらいなら凌駕してやろうという気概を持てるが、超一流の手になる作品を前にしては、小さくなってるしかない。

 『猫の帰還』(1989年 原題:Blitzcat 徳間書店刊)と『海辺の王国』(1990年 原題:The Kingdom by the Sea 徳間書店刊)も戦時中の話。前者は猫、後者は少年と犬の放浪の物語。『クリスマスの幽霊』(1992年 原題:The Christmas Ghost 徳間書店刊)はファンタジーの短編です。五つしか読んでないので、僕もこのあと、ウェストールの小説で図書館にあるものはすべて読むつもりです。

                  船越聡 2006.10.14





アヴィ『星条旗よ永遠なれ』

 『星条旗よ永遠なれ』 アヴィAvi著 1991年
 原題:Nothing but the Truth 翻訳:唐沢則幸 くもん出版刊

     〈長岡京市立図書館の児童書のコーナーから〉



 タイトルと表紙イラストから、てっきり米国人の過剰な愛国心を皮肉った話だと思いこんでしまった。心情的には同調できても、読む前から分かった話はそそられない。気になってちらちら横目で見ながらも、手に取るまでが長かった。

 結局ところ、そういう話ではなかった。この日本語タイトルは問題ある気がする。

 ニューハンプシャー州の中学の教師と生徒の間で、ちょっとした行き違いが生じる。それが雪だるま式以上のふくれあがり方で大問題に発展してしまう。描き方は極端だが、こういうことって、米国の中学に限らず、どの国のどこででも起こりうる。それだけに人ごととは読めなかった。

 高齢の女教師の学科で思わぬ低い成績評価をつけられたその男子生徒は、子供じみた反抗をする。全校一斉のホームルームで、最初に必ずスピーカーから国歌が流される。彼は音楽に合わせてハミングする。曲が校内放送で流される前に「静かに聴くこと」という定例の注意があるので、それにしたがって教師は制止するが、やめない。生徒を教頭のもとへ送り、結果として2日間の停学処分となる。

 起こったことはばかばかしいほど些細なこと。しかしそれが地方紙の小さな欄に「中学生が教師から国歌を歌うことを禁じられ、停学になった」と書かれたことから、全米規模の大騒動に発展してしまう。生徒が記者に、自分の都合の悪い部分を全部伏せて、真に受けた記者が一方的な断片情報を記事にしてしまったのだ。

 最終的には当事者の教師と生徒は学校に出てこれなくなり、二人ともまさに辛酸をなめることになる。大惨事を回避しうる脇道はいくつもあったが、それらすべて微妙に回避される。地獄行きノンストップという書き方は読むほうにストレスを与える。ハッピーエンドなんてありえないのが途中から分かるだけに、よけいつらい。

 ほぼ全面的に生徒のほうが悪いが、教師のほうも問題なしとはいえない。生徒も教師も、相手の価値基準に合わせようとする努力をしていない。その点では教師のほうがもう少し寛容であってよかったのではないかと思う。

 校長や教頭に対するとき、教師が「彼はいい子なんですけどね」といった、心にもない言葉をつけ加えるのは、おそらく無意識の保身なんだろう。問題なのはこの二人だけではない。事態の正常化よりも我が身の保身を優先する教育関係者。無責任に事件を面白おかしくあおりたてるマスメディア。それに乗せられてショーを楽しんでいる他の生徒たち。この物語には善良な人間は、男子生徒のクラスメートの女の子を除き、一人も登場しないといっていい。

 相当にビターな味わいゆえ、万人向けではないでしょう。が、傑作との太鼓判は押せます。

 本文の中に、国歌のことを『星条旗よ永遠なれ』と表記している。うかつにも読んでる間は疑問を感じなかった。

 訳者があとがきで説明している。『星条旗よ永遠なれThe Stars and Stripes Forever』はスーザのマーチ。アメリカ国歌は『星条旗The Star-Spangled Banner』というが、『星条旗よ永遠なれ』と呼ぶこともある、と書いている。

 それは単に勘違いして呼んでるだけのこと。別々の曲にそれぞれ別個の日本語表記がある。間違いを認めてしまっては、曲名表記をいたずらに混乱させるだけでしょう。

 先に、タイトルは問題ありと書いたのは、このことも含んでいる。原題は"Nothing but the Truth"(「真実以外の何ものも」)。裁判で宣誓することに使われる言葉だ。

                  船越聡 2006.10.7





藤野千夜『ルート225』

   『ルート225』 藤野千夜(ふじの・ちや)著 理論社刊



 図書館で本を借りてきては読んで返す。そのくり返しだけで、得られたことを発信しないで眠らせるのはもったいないのかはないかと思った。ビジターの方は「そんなのどうでもいいじゃん」と思うかもしれないけど、せっかくワタクシがそう思ったのだから、「あー、そうかい」ぐらいには受け止めてほしい。

 『ルート225』は映画を観た。これがとんでもなく面白い。監督は中村義洋。主演は多部未華子と岩田力。2006年の新作映画だ。

 原作はどんなふうになってるんだろうと思った。読んでみると、映画は原作のほぼ忠実な映画化だった。主人公の二人の子供が主演の二人とぴったり重なる。映画の配役をイメージして読んでしまったせいもあるんだろう。

 話の概略ぐらいは書いておかないといけないな。もちろんネタバレなしで。

 中二の姉と中一の弟が帰宅途中でパラレルワールドに迷い込んでしまう話。元の世界に帰れなくなってしまう。家には帰り着くんだけど、両親が消えている。最初は「どこ行ったんだろう」と思ってるが、実は親もその家にいるのに、お互いのいるエリアが微妙に食い違って会えなくなってることに気づいてしまう。それから二人の苦闘が始まる。なんとしても帰らねば、と。

 といってもこの作品、ちっとも深刻じゃありません。そして、SFでもありません。じゃ、なんなのか。青春コメディ、というしかないかな。なにしろ姉弟のでこぼこコンビの関係は元の世界でも異次元でもまったく変わりありません。太りぎみの弟を、明らかにいじめっ子タイプの姉がいびりまくります。悪意は持ってない。単なる日常生活の一サイクルなのだ。

 この物語のいちばんの見どころ(読みどころ?)が、二人の絶え間ない強烈なやりとりなんです。日本の児童小説にありがちな偽善のオブラートに包まれてない、ナマの子供の関係を見てるようで、目を吸い寄せられます。映画の子役二人は、見事にこの二人のキャラを浮かび上がらせている。

 姉はなぜ弟をいびり続けるのか。そこに頃合いの対象がいるから。そして。いびるのが面白いから。コドモというのは楽しいことをする生きものだ。大問題になりさえしなければ、やっちゃいけないというほどのものではない。

 SFとして読めば不満点はいっぱい出るでしょう。異次元世界としてのルールは曖昧。入り込んでしまう条件も設定されていない。エンディングもまた定石を大きく外す。しかしこれは大きく考えこませてくれる小説なんです。

 この本は成人の部にあった。著者が大人向けの作家だからという理由だけで、吟味もせずに置かれたものと思います。できたら児童の部にも一冊置いてほしい本だ。絶対子供たちの圧倒的な支持を得られるはずなのだから。

                  船越聡 2006.9.30