お宝ハンター




ばらまき



 「音楽であれ、美術であれ、映画であれ、どんな作品、アーティストが好き?と日本で問うと、大体みんな誰でも知っているような名前しか返ってこない。日本人ほどメジャーなお仕着せを喜ぶ国民も珍しい。」(堀越千秋「美は残酷である」朝日新聞社 GLOBE 2013.6.14 から)


 ホームページやミニコミ、メルマガで表現や発信を続けています。究極の理想は、まだ誰もが目を付けていない逸物を自分自身で発掘し、世に送り出してやることです。

 誰もがまだ発見していない新たな価値を見いだすのは難しい。逸品を見分ける眼力を養い、作品を見極める感度を高める必要がある。世間の常識や先入観はじゃまなだけ。ゼロからの査定です。

 要はオリジナルの価値基準を持つ、ということ。借り物の価値観や、常識的な価値判断に頼っては、新たな価値など見いだしようがない。

 反面、価値感覚のオリジナリティにこだわりすぎると、人に通じない自己満足の世界になってしまうかもしれない。それでもオリジナリティのない発信よりは好感が持てます。


 それまで見向きもされなかったものが急に評価されることがある。評価基準が変わると新しい価値が生まれる。アールブリュット(障害者アート)が注目されだしたのはその一例だ。

 誰かが評価したものを追認するんじゃなく、自らが評価を決めていかないと新しい価値が出てこない。だからアールブリュットに関してはもう、どうこう言う必要はないんです。

 それ以外にどんなものがあるか。一例を挙げると、子供たちがアスファルトにチョークで描いた絵。魅力的なものがありながら、保存もされず数日で消えていく。これらも芸術であり、立派な文化だと思う。せめてデジカメで撮って残してあげなければと思い、逸物を見つけてはせっせと撮影しています。はた目には完全に不審人物ですが。


 今では人気絶頂の印象派絵画も、当初は否定的な意味で使われていたそうだ。1874年にモネらが展示会を催したとき、新聞記者がモネの傑作『印象、日の出』を「印象的にヘタクソだ」と皮肉ったことが印象派という言葉の始まりだったという。

 もしゴーギャンやマティスの絵が今までに一度も高く評価されたことがなかったとしたらどうなるだろう。あるいはもっとありえる例として奈良美智や村上隆、森村泰昌と差し替えてもいい。彼らの作品に接した人は、今現在の評価とはまったく異なった評価を与えるはずだ。ユニークな作品と思うかもしれない。世間の評価に逆らってまで絶賛する人が現われるかどうかは怪しいものだ。

 評価というのはちょっとした偶然に左右される。ちょっとした行き違いからゴッホやピカソが評価されていない世界がありえてもおかしくはない。これらの大物は「たまたま」評価されてしまった。だから「たまたま」評価されないまま、ほこりをかぶっている作品もあるはず。

 作品の評価に絶対的なものはない。視点が変わればころころ変わる。価値基準の変更は、それまでにあった価値をゼロに叩き落とすかもしれないし、ゼロを億に変えるかもしれない。見方を変えるだけでいくらでも価値を作り出せる。発見すれば大きな価値を自分の手で生み出せる。どうです、お宝ハンターって、面白そうな仕事でしょ。

ひょっこり通信 2013.10.6




ART BRUT JAPONAIS アール・ブリュット ジャポネ展

[アート特派員]美は残酷である -- Art&Fashion

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