誘える君
(いざなえるきみ)



船越 聡
     1


  アラアラ、ひろさんは隠し事するのがお好きなようね。
  奥方にも言えないヤバい秘密は、胸の中にしまいこんでるんで
  すか?
  それともどこか吐き出すところでもあるんでしょうか?
  会社の同僚とか、飲み屋の女将とか? ン? ンンッ?


  いやはや、いきなりキワドイところを突いてくる(汗)。
  ブッコさんもイジワルなお人。
  秘密なんて、そんなたいしたものはありゃしませんよ。浮気な
  んてオソロシイことできません。けっこうキツイんですよ、う
  ちのやつ。幸いあれはネット投稿にはぜ〜んぜん興味持ってな
  いんで、たいていのこと書いても大丈夫ですけどォ。

  実のところ、ここだけの話ですよ(「ここだけ」もないか)。
  日記をつけてんですよ。秘密の日記。もっとも、秘密なんてい
  うほどのことありゃしませんけどね。でも、丸裸にされてしま
  うの、ヤですからね。だから読ませません。
  隠してます。実は・・(書いていいのかな?)本棚に物理の本の
  カバーかけて押し込んであります。絶対覗かれない(笑)。
  頭いいでしょ。


 なぁにが「キツイ」だ。そのキツイ「うちのやつ」が読んでるとも知らず、好き勝手なこと書いてくれる。バカな人。

 ネットコミューンの〈おやさしボード〉に浩が投稿し始めたころ、わたしがぜんぜん興味示さなかったからって、今も圏外だと思いこんでるんだから。「頭いいでしょ」なんて、笑っちゃうー。

 日記つけてるのはぜんぜん知らなかったなあ。それにしても、秘密を通すってのはホント、難しいもんだ。話振ってちょいときっかけ作ってやるだけで、嬉しそうにベラベラ喋って、計算したようにハマってくれる。人がいいといおうか、単純といおうか。

 浮気をしてないっていうのはほんとなんだろう、たぶん。してりゃ自慢っぽい影がチラつくはず。

 もうこれ以上ここで喋らしてもたいしたものは出てきそうにない。さあてと、あした、浩のいない間に本棚を捜索してやろう。日記にどんなことを書いてるのかはすっごく興味ある。


     2


 物理学講座のⅠ・Ⅱ・Ⅲという、B5のデッカイ本が彼の日記。いちばん新しいⅢを引き出して、彼の机の上で開いた。

 カバーだけというの、勘違いか。目次に「量子力学と波動」とある。中身は日記だ。量子って、ああそういや佐野量子っていうタレントいたなあ、ぐらいしか思い浮かばない。

 毎日は書いてなくて、特別なことのあった日だけだ。たいがいは数行程度、興が乗ったと見えるところはダラダラ長たらしく書いている。

 わたしの関心事は自分がどんなふうに書かれてるかということ。初めて会った時のことを読んでやろうと思ったら、Ⅲは4年前からだった。

 Ⅱを取り出し、該当する日付を探した。びっくりしたことに、その日はなんにも書いていない。間違ったのだろうかと、あらためて記憶を探ったが、この日ばかりはしっかり覚えている。

 内心あこがれていたのだ、彼に。当時聴講生として通っていた大学で催されるパーティに彼が現われると聞いて、無関係者のくせに友だちのコネでもぐりこんだ。

 何の記念のパーティかは聞いてなかった。どこぞのおぼっちゃま君のために親バカがスポンサーとなってひらいてくれたパーティだ、ということだった。

 参加者は、主催者が招いたそれなりに名のある人か、タダ酒を期待して集まったロクデナシかのどちらかだった。わたしはどちらでもなかった。彼は当然、前者の名のある人のほうだ。市の外郭団体の研究職という肩書きとは別に、知名度はきわめて低いものの、詩人という裏看板を掲げていた。それまで詩集を2冊出していた。

 ひっくり返ったおもちゃ箱のような言葉が乱舞する彼の詩は、わたしの当時のお気に入りだった。本文頁は活版印刷で、ツラがまた格好いい。

 「眠る目覚めるまた夢を見る 空のソラゾラしいソラ色すみきったひかりの微粒子 薔薇のバラバラなバラいろ花虫 トゲトゲしい棘の茂みの深い緑の園 透き徹る水たまりの水の中」

 写真も見たことなかったので、どんな人だろうかという野次馬根性から出かけた。初めて見た彼は、中原中也というわたしのイメージを大きく裏切った。かなり大柄でがっしりした体格。詩人よりもラグビーかアメフトの選手が似合いそうだった。そのくせ物腰は柔和で、あか抜けた印象があった。容貌やスタイルは悪くない。

 ずっと彼を観察していたら、連れてきてくれた友だちが気をまわして無理やり彼と引き合わせてくれた。わたしはいったん「そんなの、いいよ」と遠慮したが、内心嬉しくてドキドキものだった。話をしてみて、気取りがなく、相手に対して常識レベル以上の気遣いを見せる人だとわかった。

 ペンネームと思ってた伊佐山浩が本名だと、このとき初めて知った。表と裏で同じ名前を使ってるのを不思議に思ったものだ。

 その日はすっかりのぼせ上がってしまい、有頂天になった。しかしどうやら、彼にとってはこの日は特別な日でもなんでもなかったようだ。

 そのあとの書き込みをしばらく追っていくと、なんと十日もあとにパーティのことが書いてある。「たいして面白くもないパーティだったが、」などと書いている。

 その頁の最後のあたりで自分の名前が目にとびこんできた。思わず身を乗りだした。

 「だいぶ酔ったので、紹介された人もほとんど名前を忘れたが、かろうじて本田里久子さんだけは覚えている。名刺もらってるのは彼女だけだ。ずいぶんお調子者、といったかんじだったな。」

 ガァア〜ン。

 舞いあがって、ヘンテコなことを口走ったかもしれないけど、わたしの第一印象は「ずいぶんお調子者」だけなの? 話した時はかなり愛想よかったけど、わたしに関心あってのことじゃなく、単に社交儀礼にすぎなかったのか。

 そのあと、自分の名前が出てこないかと、指をすべらせて文字を追った。ぜんぜん出てこないのは、しばらく接触の機会がなかったせいだ。特にわたしのことを思い返すということもなかったらしい。わたしのほうはもちろん忘れはしない。また会うチャンスはないものかと思い、夢見がちな気分をひきずっていたものだ。

 その後、半年あまり会わなかった。

 頁を繰るのがかったるくなって、空白期間をすっとばし、次に出会った日を開いた。

 神社の境内を利用しての地域コミュニティのお祭りで、わたしは模擬店屋台を手伝っていた。雑多で大量のバッタもん丸出しなゆるキャラグッズをワゴン積みにしていた。多すぎて陳列のしようもなく、仕事してたというより、友人とピラミッド型に積んでは崩して遊ぶことに没頭していた。浩が店の前に立ってるのには、しばらく気がつかなかった。

 「見覚えある気がして、足を止めてしばらく考え込んでしまった。」とある。ずっと見られていたわけだ。わたしは遅まきながら気配を感じてふり返り、彼と目が合って心臓がとび上がった、ということだったのだ。

 こうして自分とは違う角度で過去を反芻すると、懐かしいような嬉しいような、妙な気分になる。その日はノーメイクに近い薄化粧で、髪型も違うし、当然着ていたものも違う。それでもかろうじて覚えていてくれたのだ。

 そのとき交わした言葉はほとんど記憶に残っていない。が、しっかり自己PRを怠らなかったことがそのあとにつながった。人生というものは多くの偶然とちょっぴりの努力の積み重ねなんだなと、つくづく思う。

 彼から時にお誘いをもらうことがあるようになり、こっちから誘いかけることもあった。デートした日などは、わりあいちゃんと書いてある。

 相手を値踏みするのはお互いさまとして、どんなふうに感じていたのかが気になった。「彼女は時として魅力的に見える。」なんてことを書いている。時として、だったわけ? なんだかずいぶんなこと書いてくれるじゃない。表に見せる対応と本心が大きくかけ離れてるんじゃない?

 彼とは会話のレベルもよく合うし、相性も悪くなかった。いや、今もそれほど悪くない。同じことを彼も感じていたようだ。好き嫌いを抜きにして、彼にとってはわたしという人間が好都合な存在だったというニュアンスが垣間見える。結婚するにはこれぐらいが適当かという、感情面を度外視しての計算ずくの意識もほの見える。

 読むにつれて、だんだんシラケてきた。読まないほうがよかったんじゃないかとすら思ってしまった。いいかげん適当なところで切り上げようと思いつつ、後ろ髪を引かれるように最後に目を落とした部分がひっかかった。

 「里久子さんは頼子の代わりになるかもしれない。ならないかもしれない。つきあうことで頼子を忘れることができるかもしれない。難しいかもしれない。」

 初めて目にする名前にボウゼンとなってしまった。そんな気配などは毛ほども見せなかったくせに、思いを残してた女がいたのか。人からニブいと指摘されることがたびたびあるわたしだが、そんなことに気がつかない、なんてことがあるのか。

 しかし、頼子という女性を忘れなきゃいけない事情って、何があったんだろう。それを調べようとすると、この膨大な日記をめくりつづけなければならない。どこから読み始めて、特にどのあたりを注意して読めばいいのかもわからない。手書きはこれだから困る。検索ができない。

 関心はあるけど、気が遠くなりそうなので、今日のところは諦めることにした。またいつかのお楽しみということにして、とりあえず日記を閉じ、本棚に戻した。


     3


 今朝になって、頼子という人物については、浩のパソコンのアドレス帳から捜し出すことができることに気がついた。どうにも気になってしかたない。彼の出勤時刻とわたしの出勤時刻とのわずかなタイムラグを利用して、手早く調べることにした。

 浩が出ていってすぐ、彼のパソコンを立ち上げた。人のパソコンは慣れなくて使い勝手が悪い。住所データを呼び出してから、検索するまでに手間取ってしまった。

 該当データ1件。宇佐美頼子だった。珍しい苗字だから、たぶんわたしの知ってるあの宇佐美頼子さんなんでしょう。なんで浩が彼女を知ってるのか、二人がどこでどうしてつながったのかはわからないが。

 住所・電話番号が空白になっている。転居して、それから行き先不明になったんでしょう。

 浩のパソコンをOFFにし、自分の部屋へ行って古いアドレス帳を捜した。

 彼女、宇佐美頼子さんは、わたしが以前勤めていた職場で主に事務をとっていた。このつながりが浩と彼女のかかわりに関係してるんだろうかと、しばらく考えた。わたしの仕事の人間関係に浩がぜんぜんかかわってないことを考えると、どうやら偶然たまたま、双方が別々に知ってたらしい。

 古いアドレス帳に載っている宇佐美さんの電話番号へ、ためしにコールしてみた。案の定、「現在その電話番号は使用されていません」のメッセージ。

 時計を見た。ギリギリだったので、急いで家をとびだした。

 「なぁに、彼女の居所を調べる手だてなんて、いくらでもあるさ」

 そう言えば言霊がアドレスを運んできてくれるような気がした。軽い気分でホンダモンキーを駆って、事務所へすっとんだ。


     4


 「やあ」

 半病人というていの真帆が事務所のドアを重たそうに押して入ってきた。わたしはちょうど昼の弁当を食べ終わったところだった。

 「元気そうじゃん」

 「そんな意地の悪〜い言い方。もうボロボロよォ。中北さん、いないの?」

 「お昼だし、みんな出てるよ。原稿渡すだけだったら、預かるよ」

 「あぁ、お昼なのか、もう」

 「ちょっとぉ、寝てないのぉ? ひょっとして」

 わたしは余ってる椅子を引いて、すすめた。長い髪がぼさぼさでつやがなく、顔もカサついて、頬が白い粉をふいたようになっている。

 「原稿、そろってるけどね、いちおう全部見てもらって、OKもらわないことには」

 まったくの独り言のようにつぶやいて、真帆はイラストの紙挟みをボンと机に投げだした。

 「まだこのあと仕事あるのよね」

 言いながらも真帆は、休息をとるために来たかのようにべったり椅子に根を生やした。テコで動かしてもジャッキで持ち上げても、ビクともしそうにない。

 「十二指腸のあたりがいたむんだけどね」

 「軽い炎症よ。よくあること。気にしすぎると、よけいいたむよ。心配だったら、ちゃんと検査してもらいなさい」

 「仕事キリついたらね。いま入院しろって言われると困るよ」

 いつもの調子なので、心配はしていない。職場は変わっても、なぜか彼女とは仕事の上でつながっている。

 「長いつきあいだねぇ、あんたとも」

 「里久ちゃん、ちょこちょこ勤め変えたけど、ここはけっこう続いてるね」

 「移るにはエネルギーがいるんよ。もうそんなに若くないし。そういや前のとこで宇佐美さんていう人いたけど、あの人、今どうしてるか知らない?」

 「あの人ォ? ええっと、たしかまだあそこで働いてたっけ」

 「えっ、まだあんなとこにいるのっ」

 「いやァ、あそこは辞めてるよ。お店勤めに変わったわ。飲食店よ。たしか、まだあの店にいるはずだけど」

 狭い業界世界だから、いずれ見つかるとは思ってた。あっさり判明したが、別の業界に移っていたとは。

 「机仕事よりも客相手の仕事のほうが向いてるようね、あの人。あそこにいてた頃より生き生きしてるよ」

 「そうだったの。ブキッチョに手足が生えたような人でしょ。ちゃんと生きてるのかなあって心配してたのよ。顔を見たくなったし、お店の場所、教えて」

 真帆は地図を描こうとしたのか、メモとボールペンを手にとった。思い出そうとする真帆の顔がぼおっと宙を見つめる。ときおり目をしばたくばかりの、完ペキなフリーズ状態に陥ってしまった。

 わたしは真帆の肩を優しくたたいた。

 「あとでいいよ。思い出したら、描いて」


     5


 いかん、いかんわ、眠ってしまっていた。なんてことだ。彼の部屋で日記開いたまんま、居眠りするなんて。閉じて、そっと本棚に差し込んだ。

 そろそろ帰ってきてもおかしくない時刻だ。台所をのぞいて、何か準備し忘れてるものはなかったかと確かめた。まだちょっと頭がゆるんでるので、台所で椅子に腰かけ、ぼーっと物思いにふけった。

 日記読んでてちょっとひっかかるのは、わたしが「さん」づけで、頼子さんは必ず呼び捨てで書いてること。彼女への親密度のあらわれかなと思うけど。

 いったい彼女のどこが気にいったんだろう。前の職場での宇佐美さんは、それほど印象に残る人ではなかった。数人で飲みに行った時に何度か同席した程度で、二人だけでどこかへ行ったということはなかった。

 控え目で、あまり自分を表に出さない人だったせいか、彼女のことがよくつかめていない。人のいい人間ではあったし、好感は持てた。記憶にあるのはそれぐらいだ。

 現在は浩との関係が切れてるようだけど、いつどの時点で二人の関係が終わったのかはまだわからない。どうして終わったんだろう。最近の日記に彼女の名前が見えないところからすると、もう気持ちの上では切れてるんじゃないだろうか。

 とりたてて詮索するほどのことじゃないかもしれない。しかしここまでわかってきてるのだから、納得できるところまで調べたい。あれこれ頭をめぐらせているうちに、直接本人に問いただせばいいのだと気がついた。

 立ち上がりかけた時、カチャッとドアキーの音がした。浩の大きな体がドアから滑るように入ってきた。

 「おかえりっ」

 浩はぞんざいに玄関マットの上へかばんを放り、「ただいま」と小声で言った。ふとわたしの顔に目を止め、いぶかしげな表情でわたしを見た。

 「どうしたのよ」

 「なんか楽しそうだな。いいことでもあったのかよ」

 「べつにっ」

 わたしはいわくありげに微笑んでみせた。

 浩は脱ぎかけた靴をそのままに、べったり玄関の上がり口に座りこんでいる。そして、どこか大儀そうな顔つきながら、わたしの腹の内をさぐるように鋭い目を向けた。


     6


  >ひろさんだって、結婚前はいろいろお盛んだったんでしょう。
  >奥方の前のヒトとはきれいに切れました?
  >どんなふうにして切れたのか、今後の参考のためにご教示いた
  >だけませんか。
  >いつごろのことかも教えてもらえたらもっとありがたいけど。
  >もう時効でしょ、いっちゃいましょうヨッ!


   まぁたまた。
   ブッコさんはキツイとこを突いてくるなー(汗);;;
   悪いけど、それは言えない。軽々しくは言えない。勘弁してく
   ださい。
   時効って、なんでしょうね。よく分かりません。すべて過去と
   して水に流せると、関係者みんなが納得できた時でしょうか。
   そういう状況ってのが想像できない場合もありますよね。

 切れてないや。ぜぇんぜん気持ちが切れてないじゃない。

 信じられないやつだなあ。別れてから、いったい何年たつわけ。いやだ、こんなの。ひょっとして、ツッコミ入れたのはヤブヘビだったんだろうか。

 「なぁにをブツブツ言っとるんだ」

 「えっ、あっ」

 トイレから戻ってきた中北チーフがにらんでる。いけない、声に出てしまっていた。

 「どう見ても仕事でパソコンやってるっつう顔じゃないな。いーけど、ほどほどにしてくれよ」

 「すみませーん」

 データをメモリーカードに保存し、よけいなウィンドウを閉じて仕事の画面に戻した。

 今日はぜんぜん仕事に身が入らない。原稿が届かないのに、中身カラッポのまま、フォーマットだけ決めてどうする。どうせ変更してしまうにきまってるのに。

 暇になることが前もってわかってたら、休み取って、家でじっくり日記を読むんだった。

 浩は〈おやさしボード〉の書き込みでいつもヘラヘラ軽口たたいてるくせに、あの話になったとたん、急にマジになった。大いに気にいらない。聞いてほしくてわざと気を持たせる書き方してるのかもしれないが、気になってくる。

 「中北さん、他に急ぐ仕事、何か残ってましたっけ。もし何もなければ・・・」

 「ン、と。今はないな。松川君はもう少ししたら戻ってくるよな。用事あるのか? それなら昼まででいいよ」

 「そうします。キリつけて帰ります」

 あと30分で帰れるとなると、急にやる気が出てくる。

 帰り間際に、真帆に電話入れた。この時間帯だと、起きていて出かけていない可能性が非常に高い。

 「里久子よ。起きてた? この前、宇佐美さんのいる店の場所、描かないまま帰ったでしょ。覚えてる? 思い出した?」

 「覚えてるよ、なぁんもかも。行きたいわけ? だったら案内するわ。地図描くよりそのほが早い」

 この前とちがってめちゃくちゃ元気のいい声が返ってきた。

 「わたし、今日これで上がりなのよ。今からでもいい?」

 「いーけどー。おごってくれるんでしょうねえ。あぁ、サンタさんの可愛いケーキが食べたあい!」

 真帆の声が途中から絶叫に変化した。おごりの時に遠慮しない彼女の貪欲さを思い出しておぞけをふるった。が、やむを得ない必要経費と割りきることにする。

 まだ戻らぬ松川クンを待つ中北氏をひとり残し、ささっと事務所をとび出した。


     7


 真帆のアパートで、昼用に持ってきた弁当を二人でつついてから、バイクを連ねてケーキショップのマルーシュカへ向かった。真帆の食欲をセーヴしておく計算だった。けっこうなことに、こちらの肚を悟られるほどには血のめぐりが戻っていない。

 店に着いてから、以前来たことがあるのに気がついた。ずいぶん前で、友だちに連れられてだったので、忘れていた。喫茶部と販売部が別になってる大きなケーキ屋さんだ。

 「ほれ、あそこ」

 ガラス戸を押す真帆が、陳列ケースの向こう側の販売部スタッフを目でさし示した。宇佐美さんは中年女性客の選んだケーキを箱入れしている。

 真帆に言われなきゃ彼女だと気がつかなかったかもしれない。細身で長身なのは変わりないが、おちついた印象がある。その場の空気になじみきっている。前の事務所時代とは明らかに違っていた。彼女は、入口で立ち止まっている二人にはまったく気づかず、レジを打っている。

 「ちょいと声かけていこうよ」

 真帆にうながされ、近寄ってあらためて宇佐美さんを見た。久しく会わないうちにあか抜けた美人になったと思った。

 「やーやー」

 「あら、小嶺さん。あっ、本田さん! おひさしぶりぃ」

 わたしは頼子さんの人なつこい笑みに引き寄せられた。

 「ちょっと、のぞきに来たよっ」

 「いやあ、嬉しいわあ。いま来られたんですか? 帰るとこじゃないでしょうね。ゆっくりしてってくださいよ。わたしは今日3時までですし、もし、時間あれば・・・」

 「いいよ。それなら宇佐美さんが終わるまで、わたしたち中にいるから」

 「ほんと、嬉しい。本田さんにはまたお会いしたかったんですよ」

 「へえっ。そりゃあどうも。じゃ、またあとで、ゆっくり」

 軽く手を振り、真帆とともに喫茶コーナーの空いてる席に向かった。

 わたしは、頼子さんの顔を見るまでは疑いかけていた。ひょっとしたらとんでもない勘違いで、浩は彼女ではない別の頼子さんを想っているんじゃないだろうか、と。しかし魅力的な現物を目の当たりにすると、疑いようがなかった。

 よしっ、これで決まりだ。

 「なにをニタニタしてんのよー」

 「えっ。頼子さん、きれいになったなっ、て思ってね。前より若々しくなったぐらい。どうしてかな」

 「そりゃあんた、恋すりゃ女はきれいになれるってもんじゃない?」

 真帆の含み笑いに、わたしは気持ちが少々かげった。


     8


 「小嶺さんもごいっしょしてもらえたらよかったんですのにねえ」

 言葉とは裏腹に、頼子さんは真帆が帰ったのをそんなに残念がってるふうに見えない。

 「食べてしまえばあとに用はなし、ってやつだね。しょっちゅう来てるんでしょ。またすぐ来るよ」

 頼子さんに誘われて、近くの河川敷公園まで歩いた。町なかにありながら、車の来ない広い空間があるというのは気持ちがいい。

 「あっ、ササゴイ」

 頼子さんの指さすほう、中洲の際に立つ灰青色の美しい鳥が、じっと身動きしないで川面を凝視している。

 「ほんとだ、ササゴイ。こんなとこにも来てるのね」

 ササゴイもゴイサギも、浩に何度も教えられて、わたしも見分けがつくようになった。彼女も浩に教わったのだろうか。

 コンクリートのベンチに、二人同時に腰をおろした。座ると、なんだか急に時間がゆったり流れ始めたような気がした。

 「いいところでしょう。夕方になると西の空がきれいで、夜になるまでじいっとここで、空の色の変わっていくのを見てることもあるんです」

 彼女は幸せそうな顔をしている。

 「住所変わったのね。電話は通じなかった」

 「あ、ごめんなさいね。本田さんの住所も知らなかったので」

 わたしは名刺を一枚渡した。

 「職場のほうだけど、当分変わることもないから、何か用あったら遠慮なくそこに電話して」

 自宅に電話してもらうわけにはいかないから。

 「苗字は結婚される前と変わってないんですね」

 「結婚してること、知ってるの?」

 「小嶺さんから聞いてましたから」

 「そうなの。苗字変えるといろいろ面倒なことが多くなるから、まだ入籍してないの。民法が改正されるまで待とうか、なんて・・・」

 「あら、そうなんですか。いい心がけですね」

 何がおかしいのか、頼子さんはクスクス笑った。

 とんでもない不安が背中を駆け抜けた。

 「ひょっとして・・・ わたしの夫のこと、知ってるの?」

 「いいえ、ぜんぜん。すごくいい人なんだろうって思いましたよ。本田さんの相手だから。わたし、本田さんのこと憧れてたんですよ。知的で、テキパキと仕事をこなされて。わたしもあんなふうになれたらって思ってました。機会は少なかったけど、お話しさせてもらえるだけで、わたしにとってどんなにプラスになったことか」

 「大げさすぎる。ずいぶん買い被ってくれてたもんね」

 「そんなことないですよ。わたし、名刺ないですけど、何かに書いておきましょうか」

 彼女が財布にわたしの名刺を入れる時、見慣れた萌黄色の名刺がはさまっているのを目にしてドキリとした。

 「珍しい紙使った名刺があるね」

 「これですか」

 彼女は、みずから引き抜いた浩の名刺に目を落とした。彼女の顔に驚愕の色が浮かんだ。くいいるように名刺を見た。

 「どうかしたの?」

 一瞬、その名刺を破ってしまうんじゃないかと思わせるほど、厳しい表情を見せた。急に心拍数がはね上がるのを感じた。

 頼子さんの険しい表情が、ふっと緩んだ。心なしか頬に赤みがさしている。

 「なんでもないんです。古い名刺です。気にしないでください」

 もとの場所にしまいこもうとするのを、わたしはあわてて手で押さえた。とっさのことで、言葉を思いつかなかった。

 頼子さんはけげんそうな顔で私を見た。

 わたしは顔にほてりを感じた。口の中はカラカラだったが、平静をよそおうとした。焦りがおもてに表われないよう、ゆっくり言葉を絞り出した。

 「昔の、恋人か何かなの?」

 頼子さんは手の中の名刺にふたたび目を落とした。表情は穏やかだった。はた目にはリラックスして、何も考えていないようなふうでじいっと名刺を見つめている。

 「どうしてこんなところに入ってたんでしょう」

 独り言のようにぽつんと言った。

 「別れて何年になるのかなあ」

 じれったいほどにのんびりした言い方だ。

 「話してくれない。その人のこと」

 自分のおちついた口調が自分で信じられないくらい、頭の中は沸騰している。頼子さんは、わたしの言葉が耳に入らなかったかのようだった。

 「もう5年になりますね、最後に会ってから。ここへもよく二人で散歩しに来ましたよ。忘れてると思ってましたけど、ほんとは忘れてなかったんですね。つい、こっちに足が向いてしまうんです。ぼんやり川面を見てるだけなんですけど」

 そう言って、笑みともなんともつかない表情をちらりとわたしに向けた。

 「別れたんですよ。合わなくって。彼はもっと有能な女性を求めていたんでしょうね。女としてはわたしのこと、愛してくれていたんです。でも、パートナーにはなりえないと思われたんですね。わたしとのことは御破算にして、別な相手を求めようとしたのでしょう。あの時はとても許せない気分でした。すみません、こんな話」

 彼女はうなだれた。

 「いいの、いいのよ。かまわないから言ってちょうだい。続けてもらっていいよ」

 不思議に嫉妬する気持ちが起こらず、彼女のことを気遣う思いがはるかにまさった。

 「すみません。今まで割りきっていたつもりでしたのに、いまだに引きずってるみたいです。彼は今、どうされているんでしょうね。気になってます。たぶん勤めは変わってらっしゃらないだろうとは思うんですけど」

 彼女は手にした名刺をくるりと裏返した。裏稼業が手書きで書き込んであるほう。

 「あのう、実はわたし、来月結婚するんです。婚約者のことは気にいってます。ぜんぜん不満はありません。でも、浩さんのことに関して、気持ちの整理をつけないまま放っておいちゃいけないって気がするんです」

 体がじわじわ鉛のように沈んできている。

 「で、どうするつもりなの?」

 依然うつむいたままだが、表情から心の揺れは消えている。あくまでも顔は穏やかだ。地面の一点を見つめる頼子さんの顔は、なまめかしくも厳かな美しさがあった。

 「ありがとうございます、話きいてもらって。一度、勤め先へ電話してみます。よりを戻すなんてことは考えてません。いまさらそんなことできないですし、したくもないです。でも、彼に言うべきことは全部伝えておきたいし、問いただすべきことをしっかり訊いておきたいです。それで、どうなるのか・・・ よくわかりませんけど、とりあえずけじめはつくと思います。今日でもいいでしょう。電話して、会って、話します」

 彼女は、腹の定まった表情で、顔を上げた。

 じわじわとだけど、自分は何かとんでもないことをやらかしてしまったのではないかと、そんな気がしてきた。


     9


 浩の5年前の日記。目指す箇所を見つけた。ずいぶんと多くの行を割いてるのに、あえて頼子という名前をはずして書いてるので見落としていたのだ。

 だいたいの状況はつかめてきた。頼子さんが言ったことは正しかった。浩は頼子さんのこと、パートナーとして不足を感じたようだ。それでも、ぎりぎりまで迷ったあとが見られる。

 先ほど頼子さんと別れたあと、すっかりおちこんでしまった。今はどうにか立ち直っている。

 彼女は今日、浩と会うのだろう。安閑とした気分には遠い。しかし彼女に対して嫉妬心をかきたてようにも、なぜか嫉妬する気持ちが出てこない。妙にいとおしさを感じさせてしまうところが彼女にはある。頼子さんは人に好かれるタイプなんだね、きっと。

 今日職場でダウンロードしたデータをカードから読み出した。浩の追加書きの文章を見つけた。

   ブッコさんの問いかけに答えているうちに、忘れかけてたこと
  を、大事なことを、今ごろになって思い出してしまったみたいで
  す。でも、思い出したところで、どうなるものでもないし、しか
  たないんですよね。

   過去へ戻ってやり直せるとしても、同じことをくり返す以外に
  道はなかったと思う。人生の岐路に立って、自分が選択したこと
  に誤りはなかったと思う。それでも、妙に自分の体の中にさびし
  さを感じるところがあるんですよ。

   あっ、なんか個人的な想いにひたりきって書いてしまってるよ
  うですね。みなさん、こんなのにレスつけたり、ツッコミ入れた
  りしないでくださいね。ちょっと自己憐憫の想いにひたりたかっ
  ただけですのでー。

 日記の最新の頁にも新たな書き込みがある。

 「頼子、どうしてるのだろう。捜そうと思えばつてがなくもなかったのに、捜さなかった。彼女は今ごろ僕のことなんか、思いのかけらすら残さず、きれいさっぱり忘れているんだろうなあ。幸せにやってくれてるなら、それでいいんだが。」

 浩と彼女が別れた時と、わたしが浩とつきあいだした時が、だいたい同じころだった。わたしのほうが一か月ほどあとなので、両てんびんにかけてたわけじゃない。気配を一切感じさせなかったのは、今にして思えば彼らしいことだ。

 彼がわたしに対して、それなりどころではない誠意を示しつづけていたことが、日記を読んで理解できた。わたしにとっての彼がそうであるように、彼の人生にとって、わたしは必要とされていることがよくわかった。どういういきさつがあったにせよ、浩はわたしを選んだのだ。彼を信頼することにしよう。

 わたしは壁の時計を見上げた。いつのまにか6時をまわっている。浩はすでに仕事を終えているはずだ。頼子さんとの待ち合わせ場所に向かっている最中だろうか。

 とめどなく広がりかける空想を押しとどめた。

 わたしは時計の文字盤を見つめながら考えた。浩は今日、何時に帰ってきてくれるだろうか、と。

註記:文中の詩は三枝宏子の『乱調の華』からの一部無断引用です。連絡取れずで。

船越屋トップページ  

物語の国の目次

当ページ